1940年(昭和15年)、日本が日中戦争の泥沼から太平洋戦争へと突き進んでいくさなか、沖縄で「言葉」をめぐる激しい論争が起こりました。
それが、のちに「沖縄方言論争」と呼ばれる出来事です。
論争の中心にいたのは、「民藝運動の父」として知られる柳宗悦と日本民藝協会のメンバーたち。一方で、沖縄県の学務部や警察当局は、標準語励行を「国策」として強力に推し進めていました。
両者の衝突は、やがて全国の知識人を巻き込む大きな論争へと発展していきます。
一見すると、この論争は「標準語を広めるか/方言を残すか」という教育方針の争いに見えます。しかし、その背後には
- 近代日本における「中央」と「周縁」の力関係
- 皇民化政策の中で揺れる沖縄のアイデンティティ
- そして「言語は魂の器である」という根源的な問い
が複雑に絡み合っていました。
琉球処分から「ソテツ地獄」へ――同化政策が生んだ言語の亀裂
1879年の琉球処分によって、琉球王国は近代日本国家に編入されます。
これは「政治的な主権の喪失」であると同時に、「文化的アイデンティティの否定」の始まりでもありました。
明治政府は、異なる言語を話す琉球人を「日本人」に作り替えるために、教育と言語を主要な道具として使います。
沖縄の言葉(ウチナーグチ)は「方言」と位置づけられ、東京語=標準語こそが「正しい日本語」とされました。学校教育では、
- 忠良な「皇民」を育てる
- そのために標準語を徹底させる
ことが至上命題とされ、言語の統一は「近代国家の条件」とみなされたのです。
方言札――子どもたちを縛った罰符制度
この同化教育を象徴するのが、現在も語り継がれている「方言札」です。
学校で方言を話した児童・生徒の首から下げさせられた木札は、一種の「見せしめ」や「羞恥刑」の役割を果たしました。
方言札の仕組みは、非常に陰湿です。
- 方言を話した子が札を掛けられる
- 次に方言を話した子を見つけるまで、その札を外せない(=つまり、互いの言葉を監視し合わざるを得ない)
こうして、子どもたちは友人の言葉を監視させられ、自分たちの母語に対して「恥ずべきもの」という感覚を深く刻み込まれていきます。
明治期に始まったこの制度は昭和に入っても各地で続き、沖縄でも戦前期を通じて「指導器具」として使われていた学校が少なくありませんでした。
貧困と差別が生んだ「標準語=生きる武器」という発想
しかし、標準語の押し付けをすべて「上からの暴力」とだけ見るのも不十分です。
沖縄の人々自身にも、標準語を求めざるを得なかった切実な事情がありました。
- 1920年代、砂糖価格の暴落で沖縄経済は壊滅
- 多くの人が飢え、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況に陥る
- 生きるために、「本土」や海外へ出稼ぎに向かう
しかし「本土」で彼らを待っていたのは、言葉を理由とした差別でした。
ウチナーグチを話す人々は「何を言っているか分からない異質な集団」と見なされ、就職や住居の面で大きな不利益を被ります。
その現実の中で、親や教師たちの間には次のような切実な信念が生まれました。
つまり標準語は「生き延びるための武器」であり、方言の抹殺は「貧困からの脱出」と同義になっていったのです。
この“下からの同化願望”が、県当局の方針と結びつき、後の方言論争の強力な推進力になっていきます。
民藝運動が見た沖縄――柳宗悦の衝撃と義憤
1938年末から1940年初頭にかけて、柳宗悦は、陶芸家の濱田庄司・河井寛次郎ら民藝協会の仲間とともに、三度沖縄を訪れます。
柳にとって沖縄は、
- 本土の近代化の中で失われた「日本古来の美」
- 健やかな民衆の暮らしが息づく「美の宝庫」
として映っていました。しかし那覇の町で彼は「一家揃つて標準語」などといった、標準語励行をうたうスローガンのポスターを目にすることになります。
柳はこれに強い衝撃と義憤を抱いたのは自然なことかもしれません。彼にとって、沖縄の言葉は工芸や生活文化を生み出した「母胎」であり、その土地の魂が凝縮されたもの。言葉を奪うことは文化の根を断ち切る行為であり、沖縄の美そのものを枯らす暴力だと、直感的に感じたのです。
その「ゆきすぎ」た標準語普及運動に対する柳の批判が、1940年から約1年間続く「沖縄方言論争」へと繋がっていくのでした──。
真っ向から衝突した「民藝派」と「同化派」の論理
沖縄滞在中に開かれた座談会で、柳たちは県当局の標準語励行政策を公然と批判します。
この主張は、学務部・警察部にとって「国策への挑戦」と映りました。
彼らにとって標準語励行は、戦時体制の中で沖縄県民の「忠誠」を示す最重要課題だったからです。
| 対立軸 | 柳宗悦・民藝協会側の主張 | 沖縄県当局・推進側の主張 |
| 方言の価値 | 「母語」
| 「弊害」
|
| 教育方針 | 「自然な普及」
| 「矯正」
|
| 視点 | 文化的幸福
| 経済的生存
|
ここには、「文化の固有性を守る愛国」と「画一的な同化を求める愛国」が正面からぶつかる、ねじれた構図が見えてきます。
戦争が露わにした「言葉の暴力性」
論争そのものは、はっきりした決着を見ないまま、戦時体制の強化とともに封じ込められていきます。
1940年以降、「挙国一致」が叫ばれる中で異論を唱えること自体が難しくなり、沖縄でも標準語励行は一層強まりました。
そして、戦時下にしばしば語られていた
という論理は、沖縄戦で最悪の形を取って現実化します。
防諜上の理由から、軍は標準語の使用を強く命令し、「沖縄語をもって談話しある者は間諜とみなし処分する」とまで通達しました。その結果、実際に方言を話しただけの住民が日本兵によって殺害されたと伝えられています。
戦前の方言論争で語られた「標準語を話せなければ生存できない」という論理は、
戦場において「標準語を話せなければ味方に殺される」という、極限の形で実現してしまったのです。
これは、同化政策が行き着いた最も悲劇的な結末でした。
戦後の再評価と、いま私たちへの問い
敗戦後、アメリカ統治下で再び自らのアイデンティティを模索するなか、沖縄の人々は柳宗悦の言葉を新しい意味で読み直すようになります。
- 沖縄文化の豊かさへのまなざし
- 方言の価値を「日本全体の財産」として捉え直す視点
これらは、戦後の沖縄が自尊心を取り戻すための精神的支柱のひとつとなりました。
かつて「空論」と批判された柳の主張は、後から見れば、軍国主義的な画一化に抗した人道的批判であり、文化多様性の擁護だったと理解されるようになったのです。
それでも消えなかった「均質化の圧力」
とはいえ、柳の側が「勝利」したわけではありません。
戦後もテレビ・ラジオなどのメディア普及や、本土との経済的一体化によって、琉球諸語は急速に衰退していきます。
2009年、ユネスコは沖縄語(ウチナーグチ)を含む琉球諸語を「消滅の危機にある言語」に分類しました。
また、研究者の中には、柳宗悦を「好意的なオリエンタリスト」として批判的に読み直す動きもあります。
彼が沖縄に「失われた日本」を投影していたのではないか――という問いが投げかけられているのです。
それでもなお、1940年という全体主義の時代に、国家権力に抗して「地方の言葉」を守ろうとした柳の勇気は、批判的な見方はあるものの、現代に至るまで重みを持ち続けています。
近代化のパラドックスを超えるために
1940年の沖縄方言論争は、近代日本が抱えた「同化と排除」のパラドックスを、最も鮮烈な形で可視化した事件でした。
- 沖縄県当局は、県民を差別から守るために、差別の根拠とされる文化=方言を自ら否定するような逆説に陥っていた
(ただし、それは「生き残るための自己否定」という、痛ましい選択だったとも考えられる) - 一方、民藝派は文化の固有性と多様性こそが国家の品格を高めると信じ、画一的な同化に異議を唱えた
当時の現実の前では、柳宗悦の言葉は無力に見えたかもしれません。
しかしそこには、「言語」「文化」「国家」「アイデンティティ」をどう結び直すのか、という普遍的な問いが含まれています。
グローバル化が進み、世界中で言語や文化の均質化圧力が高まっている現在、
- 少数言語や方言をどう守るのか
- 「日本語」や「日本文化」をどう捉え直すのか
- 「豊かさ」とは、単に経済力だけで測れるものなのか
といった問いは、決して過去の問題ではありません。
1940年の沖縄で交わされた、そして時に「沈黙」としてしか表現されなかった言葉の闘いは、いまを生きる私たちに対しても、「あなたはどんな言葉を残し、どんな言葉を奪おうとしていないか」と静かに問いかけ続けています。