※ここでは、しまくとぅばをはじめとした地域固有の言語をかぎかっこ付きの「方言」と表現します。
「方言」を使用した生徒に与えられた罰符「方言札」
方言札とは、標準語の使用を強制するために、主に沖縄県や奄美諸島で用いられた木製の札(厚紙製の場合も)。標準語ではなくその地域固有の言語(「方言」)を話した児童・生徒に罰として与えられました。
札の形・大きさは様々で、書かれている文字も「方言札」「普通語」などシンプルなものから、「私は方言を使いました」という具体的なものまで様々だったようです。
方言札は学校現場でどのように使われたのか
「方言」を話した児童・生徒は、他の児童・生徒に対する見せしめとして、方言札を首からぶら下げさせられるというのが一般的な使われ方でした。
この札をかけられた児童・生徒が方言札から解放されるのは、次に「方言」を話す別の児童・生徒を見つけたとき。別の児童・生徒が「方言」を話しているのを見つけたら、自分がかけていた方言札をその児童・生徒に渡します。それまでは方言札を首からぶら下げ続けなければなりませんでした。
単に方言札を首からぶら下げさせられるだけでなく、体罰や成績を下げられるなどの付加的な罰則も与えられた場合もあったようです。
方言札が導入されたのはなぜか
方言札が導入され、広まっていった背景には様々な目的がありました。ここでは代表的だと考えられる3つの理由を紹介します。
理由1:明治維新後の国家統一による標準語政策
方言札導入の一番大きな目的とされるのは「国家」の存在です。
日本に限らず、近代の国家は「国民意識」を育てるために様々な施策を行いました。その一つが「国語の制定」と言語の統一です。日本では、東京地方のことばを共通語(国語)として全国で定着させることによって国民の統一と国民意識の醸成を図ります。
その中で、沖縄でも学校教育を通じて標準語の使用を徹底し、地域の言語を使わせないという政策が行われていきました。
理由2:方言に対する負の認識と差別意識
「琉球処分」によって琉球王国から沖縄県になった当初、中国(清国)を頼りにして再び琉球王国復活を目指そうとした人々も一定数存在していました。明治政府の側でも、宮古・八重山諸島は清の領土に、沖縄諸島より北を日本の領土にするという提案をしたこともあります。
ところが、1894年から1895年にかけて起こった日清戦争で日本が勝利し、台湾を手に入れたことで、台湾より北にある諸島は全て日本の領土になりました。
この出来事は沖縄の人々の間にも非常に大きな影響を与えたと考えられます。「清国を頼りにするのではなく日本政府のもとで生きていかなければならない」と断念するようになっていったのです。彼らは、「他府県並みの待遇を得るために標準語を習得しなければならない」という考えから、標準語を推奨していったと考えられています。
「ソテツ地獄」からの脱出と同化志向
また、第一次世界大戦後(1920年代)になると、沖縄では大恐慌が起こります。「ソテツ地獄」と呼ばれるようになったこの出来事は、沖縄の人々を海外移民や内地への出稼ぎへと向かわせます。ところが、内地へ出稼ぎに行った人々は、劣悪な環境のもと低賃金での労働を強いられ、さらには差別にも苦しむことになりました。そんな人々は、「こうした状況から脱するためには、沖縄の遅れた文化・言葉を捨て、自分たちが『日本人』になる必要があると考えるに至ります。
このように、政府によって推し進められた同化制作に加えて、沖縄の人々の間に生じた「同化しなければ」という考え方によっても、沖縄の言葉を「捨てる」状況が加速していきました。
理由3:「琉球処分」以降の標準語奨励政策
1879(明治12)年の琉球処分以降、沖縄県でも人々を近代日本と同化させるべく、生活や名前を大和風に変える動きが見られるようになりました。実際、この時期の沖縄では裸足の禁止や火葬、苗字やその読み方の変更など、徐々に近代日本と同じような生活習俗が取り入れられるようになっていきます。
ところが、学校で「日本語」を用いた教育が行われていたにも関わらず、ことばを標準語にさせるのは困難でした。そんな中、1937(昭和12)年に日中戦争が始まります。それに伴い、政府は戦争協力を求めるため「尽忠報国」「挙国一致」「堅忍持久」のスローガンのもと、「国民精神総動員運動」を展開していきました。そして、沖縄県では1939(昭和14)年、この国民精神総動員運動の一環として「標準語励行運動」を推進していくことになります。この標準語励行運動は、非常に厳しく進められたもので、「方言撲滅運動」とも呼ばれることがあります。
「うちなーぐちは恥ずかしいものだから使うべきではない」
方言札を用いた教育は戦後も続いたと言われます。それによって「『方言』は恥ずかしいものだ」というイメージが植え付けられた人々も多くいました。
現代でも、「うちなーぐち(沖縄語)は恥ずかしい言葉だから使うものではない」と祖父母から言われた経験を持つ若者も存在します。
「方言」話者をスパイとみなした旧日本軍
また、沖縄戦の最中には、こうした「標準語奨励政策」はより厳しく、強制力を持つものとなっていきました。それは、日本軍から
というお触れが出されたとも言われるほどのものでした。しかも、これは単に「標準語を推奨した」という程度にはとどまらず、実際に「方言」を話したことで旧日本軍の兵士から殺害された人々もいたという証言が残されています。
沖縄で生まれ育った人々にとっての母語はこうして奪われていくこととなります。
徐々に起こった方言札の廃止・衰退
このように、沖縄の「方言」を衰退させていく一因となった方言札は戦後すぐに廃止されたわけではありません。導入時と同様に様々な要因が重なる中で、方言札は学校現場から徐々に姿を消していったと考えられています。
社会状況の変化に伴い、標準語を強制する必要性が薄れた
その背景として考えられることの一つが社会状況の変化です。沖縄・日本が戦後復興を遂げていったことに加え、マスメディアの発達も見られました。その結果、沖縄に住む人々の間でも標準語に触れる機会が以前よりも増え、方言札を用いて強制的に標準語を学ばせる必要性が薄れていったとも考えられます。
沖縄の歴史・文化・社会への眼差しが変化した
また、2006年に制定された「しまくとぅばの日」に代表されるように、沖縄の歴史・文化・社会への眼差しの変化も見逃せません。現在においてはしまくとぅばの価値の再評価とともに、方言札を抑圧・弾圧の象徴として認識する動きが見られるようになりました。
方言札の歴史は、同化政策・言語抑圧政策がいかに危険なものであったかを示すものとして現代社会においても注目すべき重要な教訓を秘めているのです。
方言札の過去から学ぶべき教訓
繰り返しになりますが、方言札制度は戦後すぐに廃止されたわけではありません。アメリカ世の中でも長期間にわたって存続した事実は、地域言語と文化の強靭を示すものでもあります。方言札は沖縄の「方言」を衰退させていった直接の原因として挙げられてはいる一方で、地域言語が人々のアイデンティティと強く結びつくものであることを示してもいるのです。
言語も含めた「多様性」の重要性が語られる現代社会において、長い間沖縄で方言札が用いられてきた歴史から何を学び、どう生かしていくのかが問われています。この記事が、言語に対する新たな視点を提供し、より豊かなコミュニケーションと相互理解へと繋がる一歩となることを願っています。
参考文献
塩出浩之, 2025, 『琉球処分』中公新書
林博史, 2025, 『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社新書
小関悠一郎ほか(2020)「国語・運動会・唱歌を通した国民意識の形成―国民意識の客観的把握をめざす中学校社会科の単元開発と実践―」『千葉大学教育学部研究紀要』第68巻, pp.287-293
近藤健一郎(2005)「近代沖縄における方言札の実態―禁じられた言葉―」『愛知県立大学文学部論集. 国文学科編 』, pp.3-14
近藤健一郎(2017)「方言札の広がりととまどい:「普通語ノ励行方法答弁書」(一九一五年)を中心に」『沖縄文化研究』44, pp.35-76.
猿田美穂子(2007)「標準語励行の実態と人々の意識―方言札に着目して―」『沖縄フィールド・リサーチ1』, pp.160-168.
仲嶺政光(2015)「沖縄における方言札の効果―沖縄県国頭郡金武町N地区を対象としたケーススタディ―」『生活指導研究』32号, pp.89-98.